李承晩は何をした人物か?ライン制定の真相とハワイ亡命の闇に迫る
日韓の歴史摩擦を語る際、避けて通ることのできない最大の政治指導者が、韓国初代大統領を務めた李承晩(イ・スンマン)です。日本の戦後復興期にあたる1952年、国際法を無視する形で一方的に引かれた「李承晩ライン」は、いまなお続く竹島問題の火種となっただけでなく、数多くの罪のない日本人漁民を拿捕・抑留する悲劇を引き起こしました。
しかし、彼が残した爪痕は対日外交にとどまりません。国内では「反共」を旗印に自国民への凄惨な虐殺を指揮し、末期には不正選挙に端を発する国民の怒りによって追放され、異国の地ハワイへ逃亡するという劇的な末路を辿りました。2026年の現在でも日韓の安全保障や歴史認識の議論において頻繁にその名が挙がる李承晩とは、一体何をした人物だったのか。美化された言説や断片的な批判を排し、歴史の深層に眠る事実を多角的に解き明かします。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:李承晩は米プリンストン大学博士号を持つ超エリートでありながら、独裁権力を握るや自国民への大規模虐殺と過酷な反日政策を断行した韓国初代大統領。
- 要点2:1952年に国際法を無視して引いた「李承晩ライン」によって竹島を不法占拠し、拿捕された日本人漁民3,929人を対日外交の政治カードに利用した。
- 要点3:1960年の「四月革命」で国民から完全に拒絶され失脚、革命裁判による処刑を恐れて米軍の支援を受けハワイへ亡命し、孤独な客死を遂げた。
【基本解説】韓国初代大統領・李承晩は何をした人なのか?激動の経歴と年表
李承晩(1875〜1965)の足跡をたどると、一人の指導者が理想主義的な独立運動家から冷徹な権威主義的独裁者へと変貌していく過程が浮かび上がります。朝鮮王朝末期に没落両班(貴族階級)の家系に生まれた李承晩は、西洋式教育機関である培材学堂で英語を学び、急進的な改革運動に身を投じました。高宗皇帝の退陣を画策した罪で投獄されるなど波乱の青年期を過ごした後、アメリカへ渡航します。
渡米後の経歴は極めて華々しいものでした。ジョージ・ワシントン大学を経てハーバード大学で修士号を、さらに1910年には名門プリンストン大学で国際法学の博士号(Ph.D.)を取得しています。当時のアジア人としては稀に見る学歴を誇り、ウッドロウ・ウィルソン大統領(当時は同大総長)とも知遇を得ていました。この「国際社会に顔が利くキリスト教徒のインテリ」という看板こそが、のちに米軍政やアメリカ連邦政府を動かす強力な武器となります。
独立運動期には上海に置かれた「大韓民国臨時政府」の初代大統領に選出されたものの、路線対立と権力闘争の末にわずか数年で弾劾・罷免される憂き目にも遭っています。この時期、国際連盟の会議場があったジュネーブで出会い、生涯の伴侶となったのがオーストリア人女性のフランチェスカ・ドナーです。彼女は後に初代大統領夫人(ファーストレディ)として大統領官邸(景武台)に入り、夫の健康管理のみならず人事や対外文書の翻訳・校閲を一手に握るなど、陰の実力者として政権中枢に君臨しました。
1945年8月の日本敗戦に伴い、李承晩はアメリカ軍の輸送機で約33年ぶりに朝鮮半島へ凱旋します。冷戦の激化を敏感に察知した彼は、左右合作(共産主義勢力と民族主義勢力の連帯)による統一政府樹立を模索する金九(キム・グ)らの慎重論を退け、南側単独の政府樹立を強硬に推進。1948年8月15日、大韓民国の樹立とともに初代大統領(73歳)に就任しました。
以下は、李承晩の激動の生涯をまとめた基本年表です。
| 年代 | 出来事・主な経歴 | 当時の情勢・背景 | 編集部の着眼点 |
|---|---|---|---|
| 1875年〜1910年 | 黄海道平山に誕生。投獄を経て渡米、プリンストン大学で国際政治学博士号を取得。 | 朝鮮王朝の崩壊から大韓帝国期、日韓併合に至る激動期。 | 徹底した親米・キリスト教的価値観と国際法感覚を身につけた原点。 |
| 1919年〜1945年 | 大韓民国臨時政府の初代大統領就任(のち弾劾)。ハワイ等を拠点に独立運動を展開。 | 欧米各国に対する外交的ロビー活動が中心。オーストリア人フランチェスカと結婚。 | 武装闘争派とは距離を置き、外交を通じた独立回復を一貫して模索。 |
| 1948年 | 大韓民国政府樹立。初代大統領に就任(73歳)。 | 米ソ冷戦の激化により朝鮮半島が分断。済州島四・三事件などの流血事態が発生。 | 単独政府樹立を強行したことで、反体制派への過酷な弾圧が日常化。 |
| 1950年〜1953年 | 朝鮮戦争勃発。漢江人道橋爆破や保導連盟事件などの惨劇を主導。休戦協定に反対。 | 北朝鮮軍の南進により国家存亡の危機。国連軍・中国義勇軍の介入で半島が焦土化。 | 自らの保身を優先する一方、徹底した「北進統一」を叫び米側と激しく衝突。 |
| 1952年 | 海洋主権宣言を発表(いわゆる「李承晩ライン」の制定)。 | サンフランシスコ平和条約発効(同年4月)を目前にした主権回復期の隙を突く。 | 竹島を取り込み、日本人漁船を次々と銃撃・拿捕。日韓関係を決定的に悪化させた。 |
| 1960年 | 3・15不正選挙に抗議する四月革命が勃発。大統領辞任に追い込まれ、ハワイへ亡命。 | 学生や市民への警察の発砲で100名以上が死亡。米国のアイゼンハワー政権も見放す。 | 事実上の国外脱出。建国の父としての権威は完全に失墜した。 |
| 1965年 | アメリカ・ハワイ州ホノルルの養老院にて死去(享年90)。 | 祖国への帰還は許されず。同年、朴正煕政権下で日韓基本条約が調印される。 | 死後、遺体のみが韓国へ送られ国立墓地に埋葬される。 |

【領土問題の原点】「李承晩ライン」と竹島問題の真相|日本漁民が受けた過酷な爪痕
李承晩の名が日本の戦後史に深く刻まれている最大の要因は、1952年1月18日に宣言された「隣接海洋に対する主権宣言」(通称:李承晩ライン)にあります。この措置は、第二次世界大戦後の連合国軍占領下で日本漁船の行動を制限していた「マッカーサー・ライン」が、同年4月のサンフランシスコ平和条約発効に伴って撤廃されることを見越し、先手を打って設定されたものでした。
当時、国際法における領海の幅は「3海里(約5.5km)」が世界の共通原則でした。しかし李承晩政権は、朝鮮半島を取り囲む公海上に最大数十海里から数百海里に及ぶ境界線を一方的に設定。そこに含まれる水域のすべての鉱物資源および水産資源に対する管轄権を主張したのです。この境界線の内側に、日本固有の領土である島根県隠岐郡の「竹島(韓国名:独島)」を無理やり取り込んだことが、現在に至る竹島領有権問題の決定的な引き金となりました。
当然ながら、日本政府およびアメリカ、イギリスなどの国際社会は「公海の自由を著しく侵す不法な宣言」として激しく抗議しました。しかし李承晩政権は警告を無視し、ラインの内側で操業していた日本の漁船を武装警察艇や海軍艦艇を用いて次々と急襲したのです。
その実態は、国際慣例を逸脱した暴力行為そのものでした。1953年2月には、公海上で操業中だった福岡県の漁船「第一大邦丸」が韓国の警備艇から銃撃を受け、漁労長の瀬戸重男氏(当時34歳)が頭部を撃ち抜かれて死亡する事件が発生。日本の世論は激昂しましたが、主権回復直後で自衛隊の前身である保安隊しか持たなかった当時の日本には、武力で国民を守る術がありませんでした。
| 項目 | 詳細・数値データ | 一般的な基準・相場(当時の国際秩序) | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 境界線の設定根拠 | 韓国大統領訓令第14号に基づく一方的宣言 | 領海3海里(公海自由の原則) | 国際合意を全く欠いた明確な国際法違反。力による現状変更の典型例。 |
| 拿捕された日本漁船数 | 328隻(外務省公式記録) | 公海上の安全航行・操業の自由 | 西日本の水産業界に壊滅的打撃を与え、多数の漁業事業者を倒産に追い込んだ。 |
| 抑留された日本人船員数 | 3,929名 | 領海侵犯疑いでも通常は強制退去処分 | 釜山の劣悪な収容所に長期間拘束。暖房や衛生環境もない過酷な生活を強要。 |
| 日本側の人的被害 | 死傷者44名(うち死亡者5名) | 無抵抗の民間船に対する武力行使は禁止 | 警告射撃を超えた実弾銃撃による殺傷であり、明らかな国家暴力。 |
| 事態解決の外交条件 | 在日韓国人犯罪者(重罪犯含む)の釈放と永住許可のバーター | 不法抑留者の無条件早期送還 | 人質外交の手法を用い、国内法秩序を歪める不当な譲歩を日本側に強要した。 |
拿捕された約4,000名に及ぶ日本人漁民は、釜山の「西大門刑務所」や劣悪な環境の収容所に何年にもわたって幽閉されました。外務省の当時の資料によると、李承晩政権は彼らを単なる密漁者としてではなく、日韓会談を自国有利に進めるための「外交的人質」として利用したのです。結果として日本政府は、大村収容所に収容されていた在日韓国人密入国者や重罪受刑者の釈放・在留特別許可を呑まざるを得なくなりました。この不条理な歴史は、日韓関係の健全な発展を阻害する深い不信感として今日にまで影を落としています。
【独裁の深淵】保導連盟事件と済州島四・三事件の真相|封印された国家虐殺
李承晩政権が振るった暴力の切っ先は、対外的な日本だけでなく、皮肉にも自国の国民へ容赦なく向けられました。彼の統治期間を決定づけたのは、冷戦構造の最前線で醸成された病的なまでの反共主義です。「共産主義者は容赦なく抹殺すべし」という狂信的なイデオロギーは、朝鮮戦争の前後に数十万人規模の無実の民間人を虐殺する国家犯罪を生み出しました。
その筆頭が、1948年に済州島で発生した「済州島四・三事件」です。単独政府樹立に反対する左派勢力の武装蜂起を名目に、李承晩政権の軍・警察、さらには極右青年団「西北青年団」が島へ投入されました。彼らは焦土化作戦を展開し、ゲリラと一般住民の区別なく島民を虐殺。全村落の7割以上が焼き払われ、当時の島民人口の1割を超える約3万人が犠牲になったと推計されています。この凄惨な弾圧から逃れるため、多くの島民が命がけで海を渡り、大阪や東京などの日本各地へ密航して定住する契機となりました。
さらに残虐を極めたのが、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した直後に起きた「保導連盟事件」の真相です。
「国民保導連盟」とは、もともと共産主義思想に染まった経歴を持つ人々を「転向」させ、保護・指導するという名目で1949年に政府主導で作られた組織でした。しかし、その実態は定員ノルマを達成するために、米や肥料の配給をエサに思想とは無関係な一般の農民や未成年者を大量に登録させたものでした。
北朝鮮軍が奇襲南進を開始し、ソウルが陥落の危機に瀕すると、李承晩政権は戦慄すべき決断を下します。「連盟員が北の軍隊に同調して後方攪乱を起こす恐れがある」という被害妄想から、内務省治安局を通じて全国の警察や憲兵隊に秘密裏の処刑命令を下したのです。拘束された人々は、トラックに詰め込まれて山間部や廃鉱、海岸へと運ばれ、手錠をかけられたまま背後から小銃や機関銃で掃射されました。
2000年代以降、韓国政府の「真実・和解のための過去史整理委員会」による公式調査が進み、全土に点在する集団埋葬地から夥しい数の白骨遺骨や靴、日用品が発掘されました。確認された犠牲者数だけでも数万人に達し、学術研究や民間団体の試算では10万人から30万人以上の無辜の国民が裁判なしで即決虐殺されたと報告されています。
さらに李承晩の人間性を象徴するのが、1950年6月28日未明の「漢江人道橋爆破事件」です。北朝鮮軍の進撃に恐れをなした李承晩は、ラジオ放送で「国連軍が助けに来る、市民は持ち場を守れ」と嘘の演説を流しながら、自身はいち早く専用列車で大田へと脱出しました。そして避難を急ぐソウル市民数千人が橋の上にひしめいている最中、自軍に漢江にかかる橋を爆破させたのです。爆破によって市民数百人が即死し、数十万人のソウル市民が逃げ場を失って共産軍の支配下に置き去りにされました。自らの保身のために平然と国民を見捨てるその冷徹さは、民衆の心に消えない不信の種を植え付けました。

【失脚の全真相】四月革命からハワイ亡命へ|なぜ初代大統領は祖国を追われたのか
戦争の混乱と国家暴力を生き延びた李承晩でしたが、その独裁体制は長くは続きませんでした。彼を権力の座から引きずり下ろしたのは、他ならぬ韓国の若き学生たちと一般市民でした。失脚の引き金となったのが、1960年3月15日に実施された第4代大統領選挙、いわゆる「3・15不正選挙」です。
当時すでに85歳に達していた李承晩は、終身大統領の座を狙っていました。さらに自らの健康不安を考慮し、後継者と目された腹心の李起鵬(イ・ギブン)を副大統領に当選させるため、内務省や警察を総動員した空前絶後の不正工作を画策したのです。行われた手口は露骨を極めました。
- 投票箱の4割に李承晩票をあらかじめ詰め込んでおく「事前投票」
- 有権者を3人組や9人組に編成し、警察立ち会いのもとで投票させる「公開投票」
- 野党の立ち会い人を暴力団を使って投票所から力づくで排除
- 夜間の停電に乗じた投票箱のまるごとすり替え
この不正により、李承晩は得票率100%近い異常な数値を叩き出し、副大統領候補の李起鵬も当選を確実にしました。しかし、あまりの露骨さに国民の我慢は限界に達しました。慶尚南道の馬山(マサン)で抗議デモが発生すると、警察はデモ隊に向かって実弾を発砲。そして数週間後、信じがたい光景が国民を震撼させます。行方不明になっていた当時高校生の金朱烈(キム・ジュヨル)君の遺体が、催涙弾を目に突き刺された状態で馬山の海に浮かび上がったのです。
この凄惨な遺体の写真が報道されるや否や、怒りの炎は全国へ瞬く間に燃え広がりました。1960年4月19日、ソウルを中心に数万人の大学生・高校生が青瓦台(当時は景武台)前へ押し寄せ、独裁打倒を叫びました。これが「四月革命(4・19革命)」です。大統領警備隊と警察は民衆に向けて無差別に発砲し、死者100名以上、負傷者数千名を出す大流血の惨劇となりました。しかし、市民の怒りは収まるどころか大学教授団までもがデモに合流し、軍部も「民衆に銃は向けられない」と戒厳令下の発砲命令を拒否しました。
ここで決定打となったのが、長年李承晩を庇護してきたアメリカ政府の「見限り」でした。冷戦下とはいえ、白昼堂々と学生を虐殺する李承晩政権の蛮行は、アメリカにとってもはや擁護できない重荷となっていました。マッカナギー駐韓米大使が大統領官邸に乗り込み、李承晩に対して強い口調で退陣を要求。「国民の信頼を失った指導者は去るべきだ」と最後通告を突きつけたのです。
四面楚歌に陥った李承晩は、4月26日、ついに「国民が望むなら辞任する」との声明を発表し、下野を余儀なくされました。そして同年5月29日未明、韓国を震撼させる脱出劇が実行されます。国民による弾劾裁判や、虐殺の罪を問われる革命裁判によって処刑されることを恐れた李承晩は、妻フランチェスカとともに米軍の支援を受け、金浦空港から極秘裏にチャーター機で逃亡しました。行き先は、かつて独立運動の拠点としていたアメリカ・ハワイでした。
「すぐに帰国できる」と信じていた李承晩でしたが、韓国国民の処罰感情は凄まじく、二度と祖国の土を踏むことは許されませんでした。ハワイ・ホノルル郊外のマキキ・クリスチャン教会近くの小さな家屋や養老院を転々とし、認知症を患いながら孤独な晩年を過ごした李承晩は、1965年7月19日、90歳でその波乱に満ちた生涯を閉じました。彼が命がけでしがみついた権力は、一握りの亡命生活と引き換えに消え去ったのです。
【構造分析】なぜ李承晩は苛烈な反日政策に執着したのか?国内政治の力学
李承晩の政治行動を読み解く上で、多くの歴史家が首を傾げるのが「なぜそこまで執拗に反日政策を推進したのか」という動機です。プリンストン大学で国際法を学び、国際協調の重要性を誰よりも熟知していたはずのインテリが、なぜ近隣国である日本との協調を頑なに拒み、李承晩ラインのような無法地帯を生み出したのでしょうか。
その背景には、単なる感情的な憎悪を超えた、権力基盤の脆弱さを隠蔽するための極めて高度な国内政治的計算が存在していました。
第1の理由は、自らの政権基盤を支えた「親日派(日帝残滓)」官僚・警察の免罪とカモフラージュです。解放直後の韓国において、国家機構を迅速に機能させるためには、日本統治下で行政や警察の実務を担っていた朝鮮人官僚たちの登用が不可欠でした。李承晩政権の中枢、とりわけ治安部門や軍部の要職は、元日本軍将校や特高警察出身者で埋め尽くされていました。
国民の間には当然、「独立したはずの祖国で、かつて同胞を弾圧していた親日警察がそのまま権力を握っている」ことへの強烈な反発がありました。李承晩はこの突き上げをかわすため、1949年に国会が設置した「反民族行為特別調査委員会(反民特委)」を警察力を使って強制的に解体・無力化しました。そして、自らが親日派を庇護しているという批判を封殺するために採用したのが、「指導者自身が誰よりも過激な反日イデオロギーを掲げる」という逆説的なポピュリズム戦略だったのです。
第2の理由は、分断国家における国民統合の「敵」の創出です。共産主義(北朝鮮)という「北の敵」と戦うだけでは、国内の不平不満を完全に抑え込むことはできませんでした。そこで、植民地支配の生々しい記憶が残る「過去の支配者・日本」を「南の敵」として設定し、国民の愛国心を絶えず外敵へ向けさせることで、自身の独裁政治や経済政策の失敗から国民の目を逸らし続けたのです。
第3の理由は、アメリカに対する強硬な外交レバレッジでした。李承晩は、アメリカが東アジアの反共防衛ラインとして日本を重視し、日韓の国交正常化を急いでいることを見抜いていました。だからこそ、あえて日本に対して強硬な態度を取り続け、「韓国を安定させたいならば、我が政権に対して軍事援助と経済援助を惜しみなく注ぎ込め」という対米揺さぶりのカードとして日本問題を利用したのです。

【多角検証】ネットの誤解と2026年現在の韓国における「李承晩再評価」のリアル
現代のインターネット空間やSNSにおいて、李承晩を巡る言説は極端な二極化を見せています。「単なる狂気の反日虐殺者」と切り捨てる声がある一方で、韓国の保守界隈を中心には「自由民主主義の防波堤となった建国の父」として美化する動きも根強く存在します。歴史の真実を見極めるためには、これらの偏った言説を冷静に検証する必要があります。
よくある誤解1:「李承晩は個人的な感情だけで日本を嫌っていた」
李承晩が日本統治に対する強い拒絶感を持っていたのは事実ですが、彼の反日政策は前述の通り極めて打算的でした。実際、朝鮮戦争が勃発して自国の存亡がかかった際、彼は日本からの物資補給や米軍基地としての日本の機能(後方支援)を当然のように受け入れていました。彼の反日はイデオロギーであると同時に、統治のための政治ツールでした。
よくある誤解2:「韓国では昔から一貫して『建国の父』として尊敬されている」
これは明らかな事実誤認です。韓国国内において、李承晩は長い間「国民を銃撃してハワイへ逃亡した独裁者」という評価が定着していました。文在寅政権下の進歩派(革新系)においては、臨時政府の法統を受け継いだ金九こそが象徴とされ、李承晩の負の遺産である済州島四・三事件や民間人虐殺への国家謝罪が大きくクローズアップされました。
しかし、近年の尹錫悦政権下の保守層では「李承晩記念館」の建設計画が進められるなど、彼の「反共防衛の功績」や「米韓相互防衛条約の締結」を再評価しようとする動きが急速に強まりました。2026年現在でも韓国内の世論は完全に二分されており、「建国大統領として讃えるべきか」「民主主義を圧殺した国家犯罪者として記憶すべきか」を巡る激しい歴史論争(記憶の戦争)が続いています。
【プロの結論】権威主義体制が現代の国際社会に残した教訓
李承晩という指導者が遺した最大の教訓は、「外敵を作り出し、ナショナリズムを国内統治の道具として煽る権威主義体制は、必ず自国民の尊厳を破壊し、取り返しのつかない破滅へと向かう」という冷徹な事実です。
自らの権力を維持するために引いた「李承晩ライン」は、数十年の時を経てもなお日韓の間にトゲとして刺さり続け、無抵抗の漁民たちに癒えない傷痕を残しました。そして、反共という大義名分のもとで自国民の命を平然と奪ったその体制は、最終的に自国民の怒りによって粉砕されたのです。一国のリーダーが歴史を私物化し、国際法を軽視したとき、どのような悲劇が生まれるのか。李承晩の生涯は、現代を生きる私たちが国際秩序と民主主義の脆さを考える上で、極めて重い警鐘を鳴らし続けています。
【李 承晩】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:李承晩の妻であるフランチェスカとはどんな人物だったのですか?
A1:オーストリア・ウィーン出身の裕福な実業家の家庭に生まれた女性(1900〜1992)です。1933年にジュネーブのホテルで李承晩と出会い、25歳の年齢差を乗り越えて翌年ニューヨークで結婚しました。大統領就任後は「景武台(大統領官邸)の秘書室長」とも呼ばれるほど絶大な影響力を持ち、夫への面会者を厳しく選別したため「オーストリアの女帝が人事権を牛耳っている」と国民から批判を浴びました。失脚後もハワイまで夫に同行し、李承晩の死後は一度オーストリアへ帰国したものの、のちに韓国へ戻り、ソウルの梨花荘で静かに生涯を終えました。
Q2:李承晩ラインで拿捕された日本人漁民たちの生活はどうだったのですか?
A2:釜山の収容所などでの生活は極めて劣悪でした。冬場でも暖房器具が一切なく、粗末な食事と非衛生的な環境により、重い凍傷や結核、栄養失調に苦しむ者が続出しました。裁判手続きも極めて不透明で、形骸化した略式裁判のみで数年間の拘禁を強いられました。過酷な抑留生活の中で精神に異常をきたす者や命を落とす船員もおり、残された日本の家族も一家の大黒柱を失ったことで経済的な困窮に追い込まれました。
Q3:朝鮮戦争が始まったとき、李承晩自身はどのように行動したのですか?
A3:1950年6月25日の開戦からわずか2日後の6月27日未明、李承晩は側近とともに特別列車で首都ソウルを極秘裏に脱出し、南の大田へと逃亡しました。その一方で、国民に対しては録音放送を通じて「軍は敵を撃退している、国民は動揺せず仕事場を守れ」と平然と虚偽の呼びかけを行いました。さらに翌28日未明には、北朝鮮軍の追撃を阻止するためとして、無数の一般市民が渡っていた漢江人道橋を無通告で爆破させ、数百名の市民を爆殺・溺死させました。この「逃亡と欺瞞」は、李承晩の指導力に対する国民の信頼を完全に失墜させる決定打となりました。
まとめ:歴史の真相を直視し、2026年の日韓関係を見据える視点
韓国初代大統領・李承晩の生涯は、近代東アジアの光と影を一身に背負った巨大なパラドックスでした。米国の最高峰で学んだ国際法学者でありながら国際法を無視して李承晩ラインを引き、独立の志士でありながら自国の国民を虐殺し、最後はアメリカ軍の手を借りてハワイへと逃亡したその足跡は、教科書に書かれた数行の記述では決して捉えきれません。
竹島問題をはじめとする日韓の未解決の対立は、突如として湧き起こったものではなく、冷戦初期の極端な権力闘争と李承晩政権による一方的な現状変更が原点となっています。2026年の現在、日韓は安全保障や経済の面でかつてない協調を迫られていますが、強固な信頼関係を築くためには、こうした歴史の暗部から目を逸らさず、当時の権力構造が何をもたらしたのかを客観的に検証し続けることが不可欠です。感情的な反発や過度な美化を排した冷静な歴史の直視こそが、未来の過ちを防ぐ唯一の羅針盤となります。 (出典: 李 承晩(Yahoo!ニュース))